落堕医論

落第医学部生が考えていること

日本語が堪能な外国人を称賛していいのだろうか

 私は露店の手伝いをすることがある。露店を出すのは特別なお祭りやイベントの時というわけではなく、定期的に開かれる直産市だ。僕はその生産に関わってはいないが、縁あって暇なときに手伝うようにしている。

 この直産市は全国でもそこそこ知名度があるらしく、県外の観光客のみならず、外国の方も少なからず訪れる。うちの店主はアメリカ語がからっきしなので、人並みには話せる僕が必死に英語で対応することになる。

 一応大学ではチャイニーズ語も習ったので、買い物の会話くらいはできてしかるべきなのだが、堕目医学部生にそんなことを求めるのは犬にテーブルマナーを叩き込むようなもので、つまり無理である。これもすべて、わが大学の中国語の単位が、うぉーしーだーしゅえしょん!といえば合格な楽単であるせいである。そもそも、まともに勉強もせず、授業中にスマホゲームや採点バイトをせこせこやる私たちが本当にうぉーしーだーしゅえしょん、私は大学生です、と言っていいものか、甚だ疑問である。

 

 

 しかし、たまにすごく恥ずかしい思いをする時がある。それは私の拙い英語が通じないときではない。相手が日本語ペラペラだった時である。

私「Oh, that’s a good one. I recommend it !」

外国人「あー、そうなんですね~」

私「・・・///」

冷静に考えれば何も恥ずかしい場面ではないのだが、実際に直面してみるとこれほど恥ずかしいシチュエーションはない。する必要のない気遣いをしたと気付いたとき、人は恥ずかしさを覚えるのであろうか。

さて、こういう時に店主は

「ほ~、日本語が上手な外人さんやな~」

というのである。

 外人という言葉が差別用語にあたるかどうかというのはここでは置いておく。(本人にはもちろん、そんなつもりはない。)問題は「日本語が上手な」という「褒め言葉」である。

 

 

 私はこの言葉を使うことが憚られてしまう。もちろん状況による。さっきまで外国語で話していた人が、「ありがとう」等の簡単な日本語をカタコトで言ってきた時だ。こういう時は「日本語、お上手ですね」「You speak Japanese very well !」とためらいなく言える。ただ、本当に上手な、日本人並みに話せる人にはできるだけ言わないようにしている。

 おかしな話だ。そんなに上手じゃない人には上手だと言い、本当にうまい人には言わない。まさか別に私が上手に日本語を話せる外国人に嫉妬しているわけではない。さすがに日本語では負けないはずだ。私が懸念しているのは、日本語がとても上手な外国人が、もう日本に住んで長いから日本語が上手である場合に、改めて日本語が上手だ、と言われたら気を悪くしないとも限らないということだ。もちろん、喜ぶ人もいると思う。日本に来て、こちらの人とコミュニケーションをとるために必死で日本語を勉強したことを誇りに思っている人なら、褒められれば素直に喜ぶかもしれない。

だが、外国人の日本語の堪能さを褒めるとき、その前提には見た目が異なる限り共同体の壁を超えることはできないという考えがあると勘ぐってしまうのは、考えすぎだろうか。ネイティブと同程度に話せるほど日本に長く暮らす人なら、日本人としてのアイデンティティを持っているかもしれない。もっと言えば、血は外国人だが、生まれた時から、あるいは幼少期からずっと日本に暮らしている人ならばどうだろう。その人にとっては自分が日本人であるというアイデンティティが支配的なのではないか。彼らに対して、「日本語が上手ですね!」というのは、ある種の疎外ではないのか。日本に住んで日本語を話していても、見た目が違えば「よそから来た日本に詳しいヒト」に過ぎないという宣告になるのではないか—――。

 

 そう考えてしまって、私はどうしてもただの褒め言葉をただの褒め言葉としてつかえない。

 

 

 社会的共同体の定義はたびたび論点になると聞く。私はその分野の勉強を詳しくしているわけではないので深く論じることはできないが、「言語」は重要のファクターであることはまちがいないだろう。

 われわれ日本人は、自分たちの共同体の認識がどのようなものなのか、客観的に見つめる機会を各々設けてもいいと思う。例えば、ずっとアメリカでトレーニングを積んできた日本語がほとんど話せないアスリートが日本の代表としてプレーすることの是非、またはその逆、ずっと日本でトレーニングしていた英語が話せないアスリートがアメリカ代表のチームメンバーとして日本代表チームを倒したとき我々はどのような感情を抱くのか。

 批判しろ、疎外しろと言っているわけではない。こういうきわどい例を用いて、改めて自分が何を以って「日本人」というあいまいな概念を定義しているのか考えてみることは、きっとあなたに映る世界をより面白くしてくれるのではないだろうか。