落堕医論

落第医学部生が考えていること

「大人」とは

 落堕医学部生です。前の記事を書いてから数年が経っていますがいまだに学生をやらせていただいております。久しぶりに考えたことを文章にしたくなったので、筆を執るならぬ、はてなブログにログインしてキーボードをカタカタしようという次第です。

 

大人ってなんだ?

 大人とは何だろうか。どう定義すべき存在か。私は大人か、あなたは大人か。

 成人年齢が18歳に引き下げられて久しい。選挙権が18歳から与えられるようになってからはさらに久しい。では18歳になれば大人か。しかし晴れて18歳になっても酒を吞めるようになるにはあと2年必要ということになっている。酒も呑めずに何が大人か、と言う人もいるだろう。では20歳になれば大人か。いやいや、経済的に独立してはじめて大人を自称できるのではないか。であるなら中卒で就職した人は16歳から大人であろうか。

 このいずれかが正しいとして、では18歳の誕生日前夜の23時59分59秒までは子供で、その1秒後に大人であろうか。初めて投票用紙を箱に入れる、その手を離したときに大人になるのか。ビールジョッキに唇が触れた瞬間から大人か。初給料が口座に振り込まれる手続きが完了した瞬間に大人になるのか。

 これらの考えはすべて極端であるということには、皆さんも賛同してくれるであろう。極端、というのはつまり、「子供」と「大人」をデジタルに分けているという点である。「子供」は「大人」にある瞬間突然なるわけではなく、段階的、あるいは連続的変化を経て大人になっていく、というのが自然な考えではなかろうか。

 

 「大人である」とは、「理性的である」と言い換えられると私は考えている。

 「理性的」の対義語は「感情的」である。子供は感情的である。乳幼児を見れば明らかである。彼らは快であれば笑い、不快であれば泣き喚く。これは言語を習得していない段階に限らない。一人で三輪車を乗り回せる段階になっても、少しでも嫌なことがあれば憚らず態度に表す。こんなことを「大人」と言われる年齢の人間がやれば途端に社会からつまはじきにされるが、「子供」だから大目に見られる。それどころか「子供って可愛いね」なんて言われる始末である。私も偶に子供のように泣き喚いて要求を通したくなるが、思うだけで実際はそんなことはしない。なぜなら「大人」としての振舞を求められる年齢になってしまっているからだ。

 

理性的とは?

 以上の説明では、「理性的」の「社会常識を守る」という側面にしか触れられていない。もっと一般的な概念として論じたい。

 私が思うに、「理性的」というのは、「Inputに対し複雑な処理を行い、合理的なOutputを導くことができる」ということである。

 またしても対義語である「感情的」を考えてみると分かりやすい。上記の定義に則れば、感情的とは「Inputに対し単純な処理を行い、非合理的なOutputを導いてしまう」と定義できる。

 例えばおっぱいを飲んで満足そうに笑ったり、腹を空かせて泣き喚く乳児は、満腹・空腹というinputに対し、どれくらい快か不快かにわけるという一次元的な処理を行って、笑う・泣くというoutputを行う。

 私は乳児よりは「大人」である自負がある。もし私がこの脳みそのまま乳児に戻れば、こんな非合理的なことはしない。なぜなら、泣いているだけでは、母親は私がおしめを替えてほしくて泣いているのか、おっぱいが飲みたくて泣いているのか、我が国の行く末を憂いて泣いているのか、はたまた窓の外の景色の美しさに感涙しているのかわからないからである。

 もう少し年齢を上げて考えてみる。誰しも、過去の友人関係のトラブルを、あの時こうすればよかった、という後悔と共に思い出すことはあるのではないだろうか。あの時こうすればよかった、と思うのは、今はその時よりも合理的なoutput、ここでは行動選択を導き出せるということである。

 話は他者への意思伝達に限らない。私は小学生のころ川で遊んでいる時に、尖った岩で足の親指の付け根を深く切ってしまったことがある。大量に流れ落ちる血を見て、私は痛みと恐怖を感じつつ、しかし何もできなかった。まあただ怪我してパニくってたというだけの話だが。とりあえず指で押せば血が止まりそうで、痛みもましになる気がしたので、そうしていていた。すると幸運にも、通りすがりの男性が声をかけてくれ、私が事情を説明すると、彼はすぐに私を近くの蛇口に連れて行き、傷口を水道水で洗ってくれた。あらかた傷口の周りの砂や泥が取れると、彼は持っていたポケットティッシュを数枚出し、私の傷口に当てるよう言い、そのうえ私の家までバイクで送ってくれたのである。

 「血が出ている」というinputに対し、ただ痛い、怖いという感情を抱くというoutputしか導けなかったのが幼き日の私である。私の救世主は、子供が血を流している状況というinputに対し、川辺で怪我をしたのであれば傷まわりが不潔である、止血の必要がある、自宅に帰るのが困難かもしれない、というproblem listを立てる処理を行い、それらを解決するためのoutputを導いたのである。

 

経験とトレーニングが理性を生む

 理性が合理的なoutputを導く能力であるとするならば、それは経験とトレーニングによって養えるものである。

 スポーツではテクニックやフィジカルに加えて、適切なプレー選択が重要であるという。プレー選択は、認知・判断・行動の3つの段階に分けられる。繰り返し経験を積んでいくうえで、各段階の精度が上がり、適切なプレー選択につながる。数学の問題でもそうだ。公式を覚えただけの段階では、問題文の言わんとするところさえちんぷんかんぷんであるが、数をこなすうちにこのようなタイプの問題はこの公式を使って、こういう解法を選択するとうまくいくことが多い、という勘が身についてくる。

 同様に、人間関係の対処や日々の課題解決にも、経験がものをいう。

 しかし、無為に”経験”をするだけでは、outputを導く能力は向上しない。適切なプロセスが必要である。その適切なプロセスとは、自身がinputからoutputを導いた過程を認識し、outputが生み出した結果をフィードバックし、その過程をアップデートすることである。

 ここで重要なのは、フィードバックをかける対象はoutputそのものではなく、「自身が取り込んだinput」と「outputを導いた過程」だとことである。

 単純な例を挙げよう。あなたは朝家を出るとき、空を見て、今日は雨が降らなそうだと考え、傘を持たなかったが、帰り道は土砂降りの雨に見舞われ、ずぶぬれになって帰宅した。

 傘を持たずに外出したというoutputが、ずぶぬれになるという結果を呼んだ。ならば、明日から毎日傘を持って外出するべきかというともちろんそうではない。ずぶぬれになるという結果を防ぐことはできるが、合理的な行動ではない。この場合「空を見て」というinputがoutputを導くのに不十分なものだったのが問題である。故に、「天気予報を確認する」というinputを以後取り込むことが、合理的なoutputを導くであろう。

 では先ほど、毎日傘を持っていくことは合理的な行動(output)ではないと書いたが、なぜそう言えるのか。それは良い結果を得るためのoutputとして過分であるからである。天気予報を確認することで、その日に雨が降るのか、降るとしたらどれくらいの降水量なのかを知ることができる(inputの改善)。さらに、ではその降水量の雨にさらされたとき自分がどれだけ濡れるか、傘を持っていく労力はいかほどか、ということを勘案し、傘を持っていくか、持たないか、傘をさしても仕方のないほどの雨であれば帰りはタクシーで帰るか等を選択できる。これがinput-outputの過程の改善である。

 このフィードバックを行う前提となるのが、input-outputの過程を自分が理解していることである。自身がどのようなinputをもとに、どのような処理を行ってoutputを導き出したかを把握していなければ、結果をもとに、どのinputが有用/不要であったか、どのような処理を行ったことが良い/悪い結果につながったかを評価できない。

 人は行動選択や何に重きを置くかという価値選択を誤るし、100%満足を得られる結果を出せることの方が稀である。しかし再び同様の場面に遭遇した際、より自身に有益な結果を享受するために、行動を改善することはできる。そしてその改善には、常に自分の選択がどのような判断材料と判断基準によって決定されているかを認識し続ける知的活動が必要なのである。

他人に対して感情的にならないために必要な「多変量」

 大人は理性的である。理性的であるためには感情的になってはならない。

 人は理性的に感情を表出することも出来るが、inputに対して反射的に表出するのとは全くの別物である。対人関係であれば、相手の言動の背景にある意図とその言動が自身に及ぼす影響を理解してから怒りのポーズをとることが最善だと判断したうえで怒るのと、自分が不快に感じたから怒るのでは全く別物、という話である。

 では感情的にならないために必要なものは何か。それは多変量的価値判断である。

 y=Σ[i=1~n]aixi(y:不快さ,x:input,a:各inputに対する重みづけ)

 という式で、不快な気持ちをモデル化する。|y|>kの場合に人は感情的なoutputに走ってしまうとしよう。

 n=1、すなわち相手の言動そのもののみがinputである場合、y=axという一変数関数になる。xに対して、|y|をk以下にするためにできることは、aをk/x以下にすることであるが、それは具体的には感情を押さえつける、我慢という行為である。しかし、我慢という行為は不安定であるし、持続可能な対処方法ではない。

 対して、nが多ければy = a1x1+a2x2+...anxnという多変量関数になる。ここでいうxiは、相手の言動のほかに、相手がその言動に至る背景、自身と違う価値観を持っているという前提、場のコンテクストなどが入る。それらに対しては客観的な重みづけが可能である。客観的な重みづけは、合理的な行動によって調節が可能である。|y|<kに保ち、そのうえで問題となったinputに理性的に対処することができる。

大人になるには

 大人は感情に流されず理性によって合理的な行動選択ができる人間の事である。

 感情に流されないためにはinput、すなわちその状況から得る情報量を増やすことが必要である。一つの状況を要素に分解し、一つ一つに適切に対処することが可能になる。

 inputの量を増やすことは合理的な行動選択をするためにも重要であるし、更に選択の精度を上げるためには己の行動選択のプロセスを理解し、その結果のフィードバックを受けて改善し続けることが肝要である。

 すなわち、inputの解像度を上げることが感情に流されないためにも、合理的な行動選択をするためにも必要とされるのである。そして、十分なinputがあって初めてそのinputに対する処理が適切であったかの自己評価が可能である。

 では一つの状況から多くの情報を汲み取ることができるためにはどうすればよいか。ひいては大人になるためにはどうすればよいか。

 ひとつは、既に述べたように、フィードバックの際にinputの評価も忘れないことである。

 しかし、そもそも自身が認知しえない情報がこの世にはあふれている。

 座学によって得られる情報は、勉強するしかない、の一言に尽きる。そこに目に見えない細菌がいるということを知らなければ、創傷に細菌が付着するというinputは絶対に得られない。

 では、対人関係においてのいわゆる「人によって考え方が違う」というもの、これもまた、他人の価値観は不可視である。これを知るためには対話が最も重要である。

 人によって価値観は異なる。当然である。だが相手の行動理念を理解するためにはその価値観をできる限り知る必要がある。そのためには、もちろん推して知るべし、という範囲もあるが、最終的には対話が重要である。

 しかし対話するためには、本人も自身の考えを理解し、説明可能な状態にしておかなくてはならない。

 十分なinputは己の行動選択の精度を高めるのに必要であり、十分なinputを得るためには己の行動選択のプロセスを理解していなくてはならない。

 すなわち、自身の行動について、他人に対して、そして自分に対して責任を持たなければならない。

 自分の選択が招いた結果が最善ではなかったとしても、その選択に至るプロセスはその時点の自分の得られたinputと処理精度の上では最善であった、そう言えるような決断をとることが、大人になる、より大人になるための第一歩であると私は考える。