落堕医論

落第医学部生が考えていること

「大人」とは

 落堕医学部生です。前の記事を書いてから数年が経っていますがいまだに学生をやらせていただいております。久しぶりに考えたことを文章にしたくなったので、筆を執るならぬ、はてなブログにログインしてキーボードをカタカタしようという次第です。

 

大人ってなんだ?

 大人とは何だろうか。どう定義すべき存在か。私は大人か、あなたは大人か。

 成人年齢が18歳に引き下げられて久しい。選挙権が18歳から与えられるようになってからはさらに久しい。では18歳になれば大人か。しかし晴れて18歳になっても酒を吞めるようになるにはあと2年必要ということになっている。酒も呑めずに何が大人か、と言う人もいるだろう。では20歳になれば大人か。いやいや、経済的に独立してはじめて大人を自称できるのではないか。であるなら中卒で就職した人は16歳から大人であろうか。

 このいずれかが正しいとして、では18歳の誕生日前夜の23時59分59秒までは子供で、その1秒後に大人であろうか。初めて投票用紙を箱に入れる、その手を離したときに大人になるのか。ビールジョッキに唇が触れた瞬間から大人か。初給料が口座に振り込まれる手続きが完了した瞬間に大人になるのか。

 これらの考えはすべて極端であるということには、皆さんも賛同してくれるであろう。極端、というのはつまり、「子供」と「大人」をデジタルに分けているという点である。「子供」は「大人」にある瞬間突然なるわけではなく、段階的、あるいは連続的変化を経て大人になっていく、というのが自然な考えではなかろうか。

 

 「大人である」とは、「理性的である」と言い換えられると私は考えている。

 「理性的」の対義語は「感情的」である。子供は感情的である。乳幼児を見れば明らかである。彼らは快であれば笑い、不快であれば泣き喚く。これは言語を習得していない段階に限らない。一人で三輪車を乗り回せる段階になっても、少しでも嫌なことがあれば憚らず態度に表す。こんなことを「大人」と言われる年齢の人間がやれば途端に社会からつまはじきにされるが、「子供」だから大目に見られる。それどころか「子供って可愛いね」なんて言われる始末である。私も偶に子供のように泣き喚いて要求を通したくなるが、思うだけで実際はそんなことはしない。なぜなら「大人」としての振舞を求められる年齢になってしまっているからだ。

 

理性的とは?

 以上の説明では、「理性的」の「社会常識を守る」という側面にしか触れられていない。もっと一般的な概念として論じたい。

 私が思うに、「理性的」というのは、「Inputに対し複雑な処理を行い、合理的なOutputを導くことができる」ということである。

 またしても対義語である「感情的」を考えてみると分かりやすい。上記の定義に則れば、感情的とは「Inputに対し単純な処理を行い、非合理的なOutputを導いてしまう」と定義できる。

 例えばおっぱいを飲んで満足そうに笑ったり、腹を空かせて泣き喚く乳児は、満腹・空腹というinputに対し、どれくらい快か不快かにわけるという一次元的な処理を行って、笑う・泣くというoutputを行う。

 私は乳児よりは「大人」である自負がある。もし私がこの脳みそのまま乳児に戻れば、こんな非合理的なことはしない。なぜなら、泣いているだけでは、母親は私がおしめを替えてほしくて泣いているのか、おっぱいが飲みたくて泣いているのか、我が国の行く末を憂いて泣いているのか、はたまた窓の外の景色の美しさに感涙しているのかわからないからである。

 もう少し年齢を上げて考えてみる。誰しも、過去の友人関係のトラブルを、あの時こうすればよかった、という後悔と共に思い出すことはあるのではないだろうか。あの時こうすればよかった、と思うのは、今はその時よりも合理的なoutput、ここでは行動選択を導き出せるということである。

 話は他者への意思伝達に限らない。私は小学生のころ川で遊んでいる時に、尖った岩で足の親指の付け根を深く切ってしまったことがある。大量に流れ落ちる血を見て、私は痛みと恐怖を感じつつ、しかし何もできなかった。まあただ怪我してパニくってたというだけの話だが。とりあえず指で押せば血が止まりそうで、痛みもましになる気がしたので、そうしていていた。すると幸運にも、通りすがりの男性が声をかけてくれ、私が事情を説明すると、彼はすぐに私を近くの蛇口に連れて行き、傷口を水道水で洗ってくれた。あらかた傷口の周りの砂や泥が取れると、彼は持っていたポケットティッシュを数枚出し、私の傷口に当てるよう言い、そのうえ私の家までバイクで送ってくれたのである。

 「血が出ている」というinputに対し、ただ痛い、怖いという感情を抱くというoutputしか導けなかったのが幼き日の私である。私の救世主は、子供が血を流している状況というinputに対し、川辺で怪我をしたのであれば傷まわりが不潔である、止血の必要がある、自宅に帰るのが困難かもしれない、というproblem listを立てる処理を行い、それらを解決するためのoutputを導いたのである。

 

経験とトレーニングが理性を生む

 理性が合理的なoutputを導く能力であるとするならば、それは経験とトレーニングによって養えるものである。

 スポーツではテクニックやフィジカルに加えて、適切なプレー選択が重要であるという。プレー選択は、認知・判断・行動の3つの段階に分けられる。繰り返し経験を積んでいくうえで、各段階の精度が上がり、適切なプレー選択につながる。数学の問題でもそうだ。公式を覚えただけの段階では、問題文の言わんとするところさえちんぷんかんぷんであるが、数をこなすうちにこのようなタイプの問題はこの公式を使って、こういう解法を選択するとうまくいくことが多い、という勘が身についてくる。

 同様に、人間関係の対処や日々の課題解決にも、経験がものをいう。

 しかし、無為に”経験”をするだけでは、outputを導く能力は向上しない。適切なプロセスが必要である。その適切なプロセスとは、自身がinputからoutputを導いた過程を認識し、outputが生み出した結果をフィードバックし、その過程をアップデートすることである。

 ここで重要なのは、フィードバックをかける対象はoutputそのものではなく、「自身が取り込んだinput」と「outputを導いた過程」だとことである。

 単純な例を挙げよう。あなたは朝家を出るとき、空を見て、今日は雨が降らなそうだと考え、傘を持たなかったが、帰り道は土砂降りの雨に見舞われ、ずぶぬれになって帰宅した。

 傘を持たずに外出したというoutputが、ずぶぬれになるという結果を呼んだ。ならば、明日から毎日傘を持って外出するべきかというともちろんそうではない。ずぶぬれになるという結果を防ぐことはできるが、合理的な行動ではない。この場合「空を見て」というinputがoutputを導くのに不十分なものだったのが問題である。故に、「天気予報を確認する」というinputを以後取り込むことが、合理的なoutputを導くであろう。

 では先ほど、毎日傘を持っていくことは合理的な行動(output)ではないと書いたが、なぜそう言えるのか。それは良い結果を得るためのoutputとして過分であるからである。天気予報を確認することで、その日に雨が降るのか、降るとしたらどれくらいの降水量なのかを知ることができる(inputの改善)。さらに、ではその降水量の雨にさらされたとき自分がどれだけ濡れるか、傘を持っていく労力はいかほどか、ということを勘案し、傘を持っていくか、持たないか、傘をさしても仕方のないほどの雨であれば帰りはタクシーで帰るか等を選択できる。これがinput-outputの過程の改善である。

 このフィードバックを行う前提となるのが、input-outputの過程を自分が理解していることである。自身がどのようなinputをもとに、どのような処理を行ってoutputを導き出したかを把握していなければ、結果をもとに、どのinputが有用/不要であったか、どのような処理を行ったことが良い/悪い結果につながったかを評価できない。

 人は行動選択や何に重きを置くかという価値選択を誤るし、100%満足を得られる結果を出せることの方が稀である。しかし再び同様の場面に遭遇した際、より自身に有益な結果を享受するために、行動を改善することはできる。そしてその改善には、常に自分の選択がどのような判断材料と判断基準によって決定されているかを認識し続ける知的活動が必要なのである。

他人に対して感情的にならないために必要な「多変量」

 大人は理性的である。理性的であるためには感情的になってはならない。

 人は理性的に感情を表出することも出来るが、inputに対して反射的に表出するのとは全くの別物である。対人関係であれば、相手の言動の背景にある意図とその言動が自身に及ぼす影響を理解してから怒りのポーズをとることが最善だと判断したうえで怒るのと、自分が不快に感じたから怒るのでは全く別物、という話である。

 では感情的にならないために必要なものは何か。それは多変量的価値判断である。

 y=Σ[i=1~n]aixi(y:不快さ,x:input,a:各inputに対する重みづけ)

 という式で、不快な気持ちをモデル化する。|y|>kの場合に人は感情的なoutputに走ってしまうとしよう。

 n=1、すなわち相手の言動そのもののみがinputである場合、y=axという一変数関数になる。xに対して、|y|をk以下にするためにできることは、aをk/x以下にすることであるが、それは具体的には感情を押さえつける、我慢という行為である。しかし、我慢という行為は不安定であるし、持続可能な対処方法ではない。

 対して、nが多ければy = a1x1+a2x2+...anxnという多変量関数になる。ここでいうxiは、相手の言動のほかに、相手がその言動に至る背景、自身と違う価値観を持っているという前提、場のコンテクストなどが入る。それらに対しては客観的な重みづけが可能である。客観的な重みづけは、合理的な行動によって調節が可能である。|y|<kに保ち、そのうえで問題となったinputに理性的に対処することができる。

大人になるには

 大人は感情に流されず理性によって合理的な行動選択ができる人間の事である。

 感情に流されないためにはinput、すなわちその状況から得る情報量を増やすことが必要である。一つの状況を要素に分解し、一つ一つに適切に対処することが可能になる。

 inputの量を増やすことは合理的な行動選択をするためにも重要であるし、更に選択の精度を上げるためには己の行動選択のプロセスを理解し、その結果のフィードバックを受けて改善し続けることが肝要である。

 すなわち、inputの解像度を上げることが感情に流されないためにも、合理的な行動選択をするためにも必要とされるのである。そして、十分なinputがあって初めてそのinputに対する処理が適切であったかの自己評価が可能である。

 では一つの状況から多くの情報を汲み取ることができるためにはどうすればよいか。ひいては大人になるためにはどうすればよいか。

 ひとつは、既に述べたように、フィードバックの際にinputの評価も忘れないことである。

 しかし、そもそも自身が認知しえない情報がこの世にはあふれている。

 座学によって得られる情報は、勉強するしかない、の一言に尽きる。そこに目に見えない細菌がいるということを知らなければ、創傷に細菌が付着するというinputは絶対に得られない。

 では、対人関係においてのいわゆる「人によって考え方が違う」というもの、これもまた、他人の価値観は不可視である。これを知るためには対話が最も重要である。

 人によって価値観は異なる。当然である。だが相手の行動理念を理解するためにはその価値観をできる限り知る必要がある。そのためには、もちろん推して知るべし、という範囲もあるが、最終的には対話が重要である。

 しかし対話するためには、本人も自身の考えを理解し、説明可能な状態にしておかなくてはならない。

 十分なinputは己の行動選択の精度を高めるのに必要であり、十分なinputを得るためには己の行動選択のプロセスを理解していなくてはならない。

 すなわち、自身の行動について、他人に対して、そして自分に対して責任を持たなければならない。

 自分の選択が招いた結果が最善ではなかったとしても、その選択に至るプロセスはその時点の自分の得られたinputと処理精度の上では最善であった、そう言えるような決断をとることが、大人になる、より大人になるための第一歩であると私は考える。

言葉遣いで複数の自分をつかいわけよう

私はトリリンガルである。

なるほど秀才たる医学部生はたとえ落堕医学部生であれど語学に堪能であろうと思われるかもしれないが、実はそうではない。

 

私が操る三つの言語は方言である。

ひとつは生まれ故郷の方言。

ひとつは中高時代を過ごした地域で話されていた関西弁っぽい方言。

ひとつは大学進学後に話している標準語(厳密には違うが)。

今となっては当然三つ目の標準語を使うことが多いのだが、酔って饒舌になった時や高校時代の友達に会ったときは関西弁っぽい方言になるし、両親と話すときは地元の方言になる。

 

そこで一つ気付いたことがある。自分がどの方言を話しているかで、自分のキャラクターが微妙に変わっているような気がするのだ。

 

 

エクリチュールという概念がある。簡単に言えば言葉遣いのことである。ロラン=バルトという人は、言葉遣いを選択するということは自身の社会的な位置づけを決めることである、というようなことを書いている。(『テラストの快感』)

たとえば、

「なるほど、タピオカミルクティを今日は飲んだのだが、やはり美味である。これはこの先数年人気の飲み物として定着するかもしれない。」

と、

「まじタピオカうまくね?今日も飲んだんだけどやっぱうまくてさ~これワンチャンずっとはやるんじゃね」

というのでは、内容はほぼ一緒なのにかなり受け取られ方が変わってくる。

私は何も情報を付していないが、上は教養のありそうな人、下は遊んでそうな若者の声で脳内再生されたと思う。

それがエクリチュールの機能である。

エクリチュールと並ぶ概念としてラングがある。これはつまり言語である。

言語も当然ただの話す手段以上の機能を持つし、考え方や印象にも影響を与える。

例えば日本語では羊は子供だろうが大人だろうが羊だが、英語ではラムが子供の羊でマトンが大人の羊である。英語話者にとって子羊と親羊は別物である。

ただし、エクリチュールとラングの大きな違いは自分で選べるかどうかということだ。

エクリチュールは自分で選べる。皆さんももしかしたら子供のことどこかの段階で一人称を「ぼく」や自分の名前から、「おれ」「わたし」に変えた時期があるのではないだろうか。もちろん方言などは環境によって半ば強制的に変えることもあるだろうが。

 

自分の社会的な立ち位置を決めるエクリチュールを自分でコントロールできるということはすなわち、自分が他者からどう見られるかをある程度選択できるということではないだろうか。

私の場合は、普段話すときやまじめな場面では標準語、飲み会でする面白い話やクラブなどのコミュ力が求められる場では関西弁っぽい言葉を半分無意識的に使い分けている。

そんなので他者からどう見られているかが大きく変わっているかどうかは確かめるすべもないので断定はできないが、少なくとも確実に言えるのは自分はそう話すほうがその場に応じたキャラを演じ分けられるのだ。

これはおそらく、関西弁っぽい言葉あるいは関西弁を話す友達、芸能人にコミュニケーション能力が高い人、話が面白い人が多いからであろう。

 

じゃあちょっと待ってくれよと、落堕医学部生くんは育った環境のおかげで三つの方言が自然に使えるようになったが、そうではない人はどうすればいいのか、と。

東京生まれ東京育ちの奴が突然方言にかぶれだすほどイタイことはないからそれはお勧めしない。

僕がお勧めするのは二つの方法である。

  • なりたいキャラクターの芸能人を参考にする
  • なりたいキャラクターの友達を作る

 

なりたいキャラクターの芸能人を参考にする

芸能人のトーク力をそっくりそのまま真似することは難しいが、彼らの言葉遣いを真似することはまだ可能だ。

自信をもって会話を回せるキャラクターを目指すなら島田紳助さん、聞き上手で話させ上手ならマツコ・デラックスさん、独特の間や言い回しがとても参考になる松本人志さんなどは僕がトークを聞く芸能人だ。

 

なりたいキャラクターの友達を作る

芸能人の話を聞くだけではあまり定着しない。やっぱり会話をすることで話し方は定着する。長く付き合っていると話し方が似てくるという経験は皆さんにもあるのではないだろうか。皆さんの周りにこいつコミュ力高いな~と思う人がいれば、その人の表情だとか話す内容だとかだけではなく、単なる言葉遣いに注目してみるといいかもしれない。

 

 

自分を使い分けるという考え方はちょっと中二病っぽいかもしれないが、言葉遣いでひとの印象が変わるというのはごく普通のことである。それを逆手にとってなりたい自分に一歩近づけるのなら、なかなかに夢のある、建設的な話ではないだろうか。

 

 

日本語が堪能な外国人を称賛していいのだろうか

 私は露店の手伝いをすることがある。露店を出すのは特別なお祭りやイベントの時というわけではなく、定期的に開かれる直産市だ。僕はその生産に関わってはいないが、縁あって暇なときに手伝うようにしている。

 この直産市は全国でもそこそこ知名度があるらしく、県外の観光客のみならず、外国の方も少なからず訪れる。うちの店主はアメリカ語がからっきしなので、人並みには話せる僕が必死に英語で対応することになる。

 一応大学ではチャイニーズ語も習ったので、買い物の会話くらいはできてしかるべきなのだが、堕目医学部生にそんなことを求めるのは犬にテーブルマナーを叩き込むようなもので、つまり無理である。これもすべて、わが大学の中国語の単位が、うぉーしーだーしゅえしょん!といえば合格な楽単であるせいである。そもそも、まともに勉強もせず、授業中にスマホゲームや採点バイトをせこせこやる私たちが本当にうぉーしーだーしゅえしょん、私は大学生です、と言っていいものか、甚だ疑問である。

 

 

 しかし、たまにすごく恥ずかしい思いをする時がある。それは私の拙い英語が通じないときではない。相手が日本語ペラペラだった時である。

私「Oh, that’s a good one. I recommend it !」

外国人「あー、そうなんですね~」

私「・・・///」

冷静に考えれば何も恥ずかしい場面ではないのだが、実際に直面してみるとこれほど恥ずかしいシチュエーションはない。する必要のない気遣いをしたと気付いたとき、人は恥ずかしさを覚えるのであろうか。

さて、こういう時に店主は

「ほ~、日本語が上手な外人さんやな~」

というのである。

 外人という言葉が差別用語にあたるかどうかというのはここでは置いておく。(本人にはもちろん、そんなつもりはない。)問題は「日本語が上手な」という「褒め言葉」である。

 

 

 私はこの言葉を使うことが憚られてしまう。もちろん状況による。さっきまで外国語で話していた人が、「ありがとう」等の簡単な日本語をカタコトで言ってきた時だ。こういう時は「日本語、お上手ですね」「You speak Japanese very well !」とためらいなく言える。ただ、本当に上手な、日本人並みに話せる人にはできるだけ言わないようにしている。

 おかしな話だ。そんなに上手じゃない人には上手だと言い、本当にうまい人には言わない。まさか別に私が上手に日本語を話せる外国人に嫉妬しているわけではない。さすがに日本語では負けないはずだ。私が懸念しているのは、日本語がとても上手な外国人が、もう日本に住んで長いから日本語が上手である場合に、改めて日本語が上手だ、と言われたら気を悪くしないとも限らないということだ。もちろん、喜ぶ人もいると思う。日本に来て、こちらの人とコミュニケーションをとるために必死で日本語を勉強したことを誇りに思っている人なら、褒められれば素直に喜ぶかもしれない。

だが、外国人の日本語の堪能さを褒めるとき、その前提には見た目が異なる限り共同体の壁を超えることはできないという考えがあると勘ぐってしまうのは、考えすぎだろうか。ネイティブと同程度に話せるほど日本に長く暮らす人なら、日本人としてのアイデンティティを持っているかもしれない。もっと言えば、血は外国人だが、生まれた時から、あるいは幼少期からずっと日本に暮らしている人ならばどうだろう。その人にとっては自分が日本人であるというアイデンティティが支配的なのではないか。彼らに対して、「日本語が上手ですね!」というのは、ある種の疎外ではないのか。日本に住んで日本語を話していても、見た目が違えば「よそから来た日本に詳しいヒト」に過ぎないという宣告になるのではないか—――。

 

 そう考えてしまって、私はどうしてもただの褒め言葉をただの褒め言葉としてつかえない。

 

 

 社会的共同体の定義はたびたび論点になると聞く。私はその分野の勉強を詳しくしているわけではないので深く論じることはできないが、「言語」は重要のファクターであることはまちがいないだろう。

 われわれ日本人は、自分たちの共同体の認識がどのようなものなのか、客観的に見つめる機会を各々設けてもいいと思う。例えば、ずっとアメリカでトレーニングを積んできた日本語がほとんど話せないアスリートが日本の代表としてプレーすることの是非、またはその逆、ずっと日本でトレーニングしていた英語が話せないアスリートがアメリカ代表のチームメンバーとして日本代表チームを倒したとき我々はどのような感情を抱くのか。

 批判しろ、疎外しろと言っているわけではない。こういうきわどい例を用いて、改めて自分が何を以って「日本人」というあいまいな概念を定義しているのか考えてみることは、きっとあなたに映る世界をより面白くしてくれるのではないだろうか。

センタープレテストで197点、駿台全国模試で偏差値74.5をとった僕の国語の勉強法(現代文:評論編)

こんにちは落堕医学部生です。今となっては見る影もありませんが、私も数年前は、具体的には受験生のころは人よりはお勉強ができました。特に国語はかなり得意で、記述型の駿台全国模試では何度か偏差値75ちかくを、マーク型模試では最高で197点をとったこともあります。

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高3で受けた駿台全国模試

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センター直前のマーク模試





そんな僕が、どういう勉強をしていたのか、書いていきたいと思います。

国語の勉強ってどうやってやるの?と困っている中高生の皆さんの参考になったら幸いです。

ただ、はじめに申し上げておきますと、今回具体的に「この参考書を何周やればいい!」みたいなことは書かないつもりです。ひとによって必要な勉強はそれぞれ違います。その中でも普遍的にこれは重要だな、と思ったことを書くつもりなので、そこはご了承ください。

 

 

<始めに>

国語に限らず、大学入試の採点というのはどのような基準で行われているかが不透明なことが多いです。択一式の問題はまだしも、記述タイプの設問は採点方法によって大きく総合点が変わってくるような気がします。今回は、模試等で多く行われている、「要素加点方式」で採点されているという仮定の下、話を進めます。

要素加点方式というのは、解答に必要な要素がいくつか用意されていて、それぞれの要素に得点が設定されており、受験者の解答にその要素が含まれていればその点が加算されるというものです。例外として、解答が文章として成り立っていなかったり、要素は入っていても総合的な意味が全く的外れだったり、明らかに問題文の主張と矛盾する記述があったりするとバツになる場合もあるようです。

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芸術家がうらやましい

芸術とはなにか。

先に断っておくが私は別にその手の専門家でもなんでもないから、以下に書く内容には、有識者からすれば噴飯ものであったりあるいは逆鱗を撫でまわすようなものかもしれないが、ここはご容赦いただきたい。

 

例えば絵画。絵がよくわからぬ者でも、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』やレンブラントの『夜警』をはじめとするバロック期の写真と見まごうような写実的な絵画には圧倒されるだろう。

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『牛乳を注ぐ女』

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『夜警』

ならば絵画の価値は実物をいかに忠実に写し取るかだろうか。否。仮にそうであれば、ピカソの『ゲルニカ』の価値はiPhoneで撮った私の自撮り写真にも劣ることとなる。
芸術は実物の模写にあらず。なぜなら、実物は写実よりはいくぶん本物であるからである。

 

ならば、芸術が写し出すものとは実物がないものであると言える。わたしはそれをうまく表現する言葉を持たぬので、ここでは陳腐に「感動」と表現させていただく。

話を分かりやすくするために、我々の日常生活に目を向けてみよう。

例えばバイトで帰りが遅くなってくたくたになった帰り路、閑かな暗い道にポツンとラーメン屋の屋台が立っていた時。

例えば雨の日の昼下がりにコインランドリーで本を読みながら洗濯が終わるのを待つ人の姿を見た時。

ここには、ただの風景以上の「感動」があるのではないだろうか。

それは基本的に体験した人にしかわからぬ感覚だ。体験したとしても、鋭い感性を持たねばその感動に気付くことができないかもしれない。しかしそれを体験させてくれるのが芸術ではなかろうか。

 

先にあげた『牛乳を注ぐ女』や『夜警』が我々を圧倒するのは、そこにドラマを見るからだ。一枚の絵画は雄弁に、鋭き感性を備えた巨匠の視野を、我々に伝える。写真と見まごうような写実性は、それを表現する手段でしかない。もしフェルメールが偉大な詩人であれば牛乳を注ぐ女を見た体験をもとに詩を詠んだだろう。作曲家であったら音楽にしただろう。手元にiPhoneがあれば、撮影して加工し、その感動を人に伝えようとしたかもしれない。

 

私は芸術家を、うらやましく思う。

彼らは創作によって、平凡な個人的体験を普遍的な感動へと昇華する。

これは決してクラシカルな芸術に限らない。

例えば、『高嶺の花子さん』で有名(もう何年前だ?)なbacknumber。彼らの歌に描かれているのは、いってみれば得恋、失恋、片思い。夏の雰囲気でちょっと彼女が欲しくなった男の彼女ほしいいいいいいいいという心の叫び、彼女と別れた寂しいいいいいいという悲嘆、すなわちおおよその男性なら味わったことのあるであろう平凡な出来事である。それをヒット曲にまとめ上げた。これを芸術と呼ぶとあまりに大げさで馬鹿らしくなってしまうが、すごい、と思う。

なんなら成人向けの漫画にも、私は芸術的魅力を感じる。特定のシチュエーションや、体の部位に特に魅力を何となく感じる人は多いが、成人向け漫画の作者はそれを絵にする。そこに描かれる肉体はしばしば実際の人体からは乖離している。つまり、性癖にストライクという「感動」を、漫画を通して読者に伝え、読者はそれに共感するのである。

 

自分が美しい、何となく心惹かれる、寂しい、つらい、幸せだ、と思うことを、人に伝えることは実は難しい。それは時にストレスである。

そんな問題に正面から向き合い、「感動」の表現手法を追求する芸術家が、私はうらやましいのである。

 

落堕医論

半年のうちに世相は変わった。再試は本試といでたつ医学部生は。

若者たちは花と散ったが、同じ彼らが生き残って留年生となる。

けなげな心情で彼らを送った元同期たちも半年の月日のうちに彼らを飲みに誘うこともまれになるばかりであろうし、やがて忘れ去ることも遠い日のことではない。

なぜ厳しい大学受験を勝ち抜いた腐っても秀才である医学部生が、落第などするのだろうか。人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上皮だけのことだ。

 

私は医学部生である。6月24日のこの段階で、落第が決定してしまった。

すなはち、ここから来年の3月までいかに勉学に励もうと、いや、先輩にお酒を注いで過去問をいただいたり、優秀たる同期に媚びてご指導ご鞭撻をいただこうと、教授の足の裏を三日三晩丹念に嘗め回そうと、その翌日、4月1日にはまた同じ学年の始まりである。

なぜこのような由々しき事態に陥るまでに私が堕落したのか、それは機会があればお話しする。このブログは某無頼派の巨匠の代表作あやかった名を冠し、わたしが普段考えているよしなしごとを綴る所存だ。

 

私は今のところ人より少し”高校教育範囲から出題される問題”に対して素早く正確に答えることが得意なだけの矮小な人間であるから、ここで読んだことを他人に得意満面に話さぬほうが、身のためであると忠告して、ブログ開始のあいさつとさせていただく