落堕医論

落第医学部生が考えていること

芸術家がうらやましい

芸術とはなにか。

先に断っておくが私は別にその手の専門家でもなんでもないから、以下に書く内容には、有識者からすれば噴飯ものであったりあるいは逆鱗を撫でまわすようなものかもしれないが、ここはご容赦いただきたい。

 

例えば絵画。絵がよくわからぬ者でも、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』やレンブラントの『夜警』をはじめとするバロック期の写真と見まごうような写実的な絵画には圧倒されるだろう。

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『牛乳を注ぐ女』

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『夜警』

ならば絵画の価値は実物をいかに忠実に写し取るかだろうか。否。仮にそうであれば、ピカソの『ゲルニカ』の価値はiPhoneで撮った私の自撮り写真にも劣ることとなる。
芸術は実物の模写にあらず。なぜなら、実物は写実よりはいくぶん本物であるからである。

 

ならば、芸術が写し出すものとは実物がないものであると言える。わたしはそれをうまく表現する言葉を持たぬので、ここでは陳腐に「感動」と表現させていただく。

話を分かりやすくするために、我々の日常生活に目を向けてみよう。

例えばバイトで帰りが遅くなってくたくたになった帰り路、閑かな暗い道にポツンとラーメン屋の屋台が立っていた時。

例えば雨の日の昼下がりにコインランドリーで本を読みながら洗濯が終わるのを待つ人の姿を見た時。

ここには、ただの風景以上の「感動」があるのではないだろうか。

それは基本的に体験した人にしかわからぬ感覚だ。体験したとしても、鋭い感性を持たねばその感動に気付くことができないかもしれない。しかしそれを体験させてくれるのが芸術ではなかろうか。

 

先にあげた『牛乳を注ぐ女』や『夜警』が我々を圧倒するのは、そこにドラマを見るからだ。一枚の絵画は雄弁に、鋭き感性を備えた巨匠の視野を、我々に伝える。写真と見まごうような写実性は、それを表現する手段でしかない。もしフェルメールが偉大な詩人であれば牛乳を注ぐ女を見た体験をもとに詩を詠んだだろう。作曲家であったら音楽にしただろう。手元にiPhoneがあれば、撮影して加工し、その感動を人に伝えようとしたかもしれない。

 

私は芸術家を、うらやましく思う。

彼らは創作によって、平凡な個人的体験を普遍的な感動へと昇華する。

これは決してクラシカルな芸術に限らない。

例えば、『高嶺の花子さん』で有名(もう何年前だ?)なbacknumber。彼らの歌に描かれているのは、いってみれば得恋、失恋、片思い。夏の雰囲気でちょっと彼女が欲しくなった男の彼女ほしいいいいいいいいという心の叫び、彼女と別れた寂しいいいいいいという悲嘆、すなわちおおよその男性なら味わったことのあるであろう平凡な出来事である。それをヒット曲にまとめ上げた。これを芸術と呼ぶとあまりに大げさで馬鹿らしくなってしまうが、すごい、と思う。

なんなら成人向けの漫画にも、私は芸術的魅力を感じる。特定のシチュエーションや、体の部位に特に魅力を何となく感じる人は多いが、成人向け漫画の作者はそれを絵にする。そこに描かれる肉体はしばしば実際の人体からは乖離している。つまり、性癖にストライクという「感動」を、漫画を通して読者に伝え、読者はそれに共感するのである。

 

自分が美しい、何となく心惹かれる、寂しい、つらい、幸せだ、と思うことを、人に伝えることは実は難しい。それは時にストレスである。

そんな問題に正面から向き合い、「感動」の表現手法を追求する芸術家が、私はうらやましいのである。