落堕医論

落第医学部生が考えていること

言葉遣いで複数の自分をつかいわけよう

私はトリリンガルである。

なるほど秀才たる医学部生はたとえ落堕医学部生であれど語学に堪能であろうと思われるかもしれないが、実はそうではない。

 

私が操る三つの言語は方言である。

ひとつは生まれ故郷の方言。

ひとつは中高時代を過ごした地域で話されていた関西弁っぽい方言。

ひとつは大学進学後に話している標準語(厳密には違うが)。

今となっては当然三つ目の標準語を使うことが多いのだが、酔って饒舌になった時や高校時代の友達に会ったときは関西弁っぽい方言になるし、両親と話すときは地元の方言になる。

 

そこで一つ気付いたことがある。自分がどの方言を話しているかで、自分のキャラクターが微妙に変わっているような気がするのだ。

 

 

エクリチュールという概念がある。簡単に言えば言葉遣いのことである。ロラン=バルトという人は、言葉遣いを選択するということは自身の社会的な位置づけを決めることである、というようなことを書いている。(『テラストの快感』)

たとえば、

「なるほど、タピオカミルクティを今日は飲んだのだが、やはり美味である。これはこの先数年人気の飲み物として定着するかもしれない。」

と、

「まじタピオカうまくね?今日も飲んだんだけどやっぱうまくてさ~これワンチャンずっとはやるんじゃね」

というのでは、内容はほぼ一緒なのにかなり受け取られ方が変わってくる。

私は何も情報を付していないが、上は教養のありそうな人、下は遊んでそうな若者の声で脳内再生されたと思う。

それがエクリチュールの機能である。

エクリチュールと並ぶ概念としてラングがある。これはつまり言語である。

言語も当然ただの話す手段以上の機能を持つし、考え方や印象にも影響を与える。

例えば日本語では羊は子供だろうが大人だろうが羊だが、英語ではラムが子供の羊でマトンが大人の羊である。英語話者にとって子羊と親羊は別物である。

ただし、エクリチュールとラングの大きな違いは自分で選べるかどうかということだ。

エクリチュールは自分で選べる。皆さんももしかしたら子供のことどこかの段階で一人称を「ぼく」や自分の名前から、「おれ」「わたし」に変えた時期があるのではないだろうか。もちろん方言などは環境によって半ば強制的に変えることもあるだろうが。

 

自分の社会的な立ち位置を決めるエクリチュールを自分でコントロールできるということはすなわち、自分が他者からどう見られるかをある程度選択できるということではないだろうか。

私の場合は、普段話すときやまじめな場面では標準語、飲み会でする面白い話やクラブなどのコミュ力が求められる場では関西弁っぽい言葉を半分無意識的に使い分けている。

そんなので他者からどう見られているかが大きく変わっているかどうかは確かめるすべもないので断定はできないが、少なくとも確実に言えるのは自分はそう話すほうがその場に応じたキャラを演じ分けられるのだ。

これはおそらく、関西弁っぽい言葉あるいは関西弁を話す友達、芸能人にコミュニケーション能力が高い人、話が面白い人が多いからであろう。

 

じゃあちょっと待ってくれよと、落堕医学部生くんは育った環境のおかげで三つの方言が自然に使えるようになったが、そうではない人はどうすればいいのか、と。

東京生まれ東京育ちの奴が突然方言にかぶれだすほどイタイことはないからそれはお勧めしない。

僕がお勧めするのは二つの方法である。

  • なりたいキャラクターの芸能人を参考にする
  • なりたいキャラクターの友達を作る

 

なりたいキャラクターの芸能人を参考にする

芸能人のトーク力をそっくりそのまま真似することは難しいが、彼らの言葉遣いを真似することはまだ可能だ。

自信をもって会話を回せるキャラクターを目指すなら島田紳助さん、聞き上手で話させ上手ならマツコ・デラックスさん、独特の間や言い回しがとても参考になる松本人志さんなどは僕がトークを聞く芸能人だ。

 

なりたいキャラクターの友達を作る

芸能人の話を聞くだけではあまり定着しない。やっぱり会話をすることで話し方は定着する。長く付き合っていると話し方が似てくるという経験は皆さんにもあるのではないだろうか。皆さんの周りにこいつコミュ力高いな~と思う人がいれば、その人の表情だとか話す内容だとかだけではなく、単なる言葉遣いに注目してみるといいかもしれない。

 

 

自分を使い分けるという考え方はちょっと中二病っぽいかもしれないが、言葉遣いでひとの印象が変わるというのはごく普通のことである。それを逆手にとってなりたい自分に一歩近づけるのなら、なかなかに夢のある、建設的な話ではないだろうか。